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[雨は遠いそらの上] 記事数:109

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Donny Hathawayがいかに素晴らしいかについて、その他の辛辣な(だけの)愚痴

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この季節になると、無性にダニー・ハサウェイが聴きたくなる(と言いつつ、はっぴいえんどを聴いている)。去年、ダニー・ハサウェイの「LIVE」を聴きながら各地の桜を見て回っていたからだと思うのだが、この発作的な刹那な感情はまさしく、インプリンティング<刷り込み>の発露であろう(まさしく…?)。

という、口調はシリアスだがまったく意味の無い文章からいきましょうか。くだらない文章(自分で思うにマジくだらねえっす。やべえっす)をお読みになる時間が無い方は、文末に素晴らしい音楽をご紹介しておりますので、良かったら御覧下さい。
 
日がな家に引き篭って酒を飲み暮らしていたら、いつの間にか桜の花弁も道に落ち、道の端の吹き溜まりに塵芥と混じっていた(ああ、はっぴいえんど)。
酒が切れたのでふらふらとした頭と身体を酷使して町のデパートに行き酒を調達したところ、どうも世事に疎いもので、ビニール袋が無料ではなく有料になっていて、5円取られる。ということであった。「あ、お願いします。あ…ごめんなさいやっぱ良いです」とそそくさと他に携行していた袋に冷えたビール缶を詰めたのであるが、「5円ばっかしが惜しいのかよけちくせえなあ」と店員さんに思われなかったかとヒヤヒヤしながらその場を去りつつ、ベンチに座ってさっそくビール缶のプルタブを開け、さして旨くもないがいつもと同じ味。に大満足し、デパートを闊歩するカワイコちゃんたちを視姦しながら帰ってきた。
無論、小生は5円が惜しかったというわけではない。たかがビール缶4本にわざわざ新しいビニール袋を用意してもらうのが忍びなかったのである。こんなアダルトチルドレン崩れの糞野郎に、忍びなかったのだ。
あるいはそれらの感情をひっくるめて「もったいない」という言葉があるが、僕なんかはこの言葉が好きだ。わりかし好きだ。前述した高貴な精神から、卑屈な習慣までの多くの感情がそこに込められている。これが「MOTTAINAI」になるとちょっといただけない。
「エコ」という言葉もあるがあたくしはこれにはちょっと懐疑的で、こいつを疑問なしにまるで詩をしたためるかのごとく使っている企業諸氏に対してあまり良い印象を持っていない。
だいたいが、「もったいないから(レジ袋など)あんまり無駄に使わないようにしましょう」というふうなベースが無い。ベースが無いのにぐだぐだしてる。という現在の社会状況そのものがぼくちんにとっては大変不満であり、企業はもちろんのこと、その甘い口車に乗せられて安穏としている消費者こそその元凶の中核であり、ぼくは消費者を豚。だと思っている(あと、一部(以外)の「市民」とPTAども)。
だいたいが、「お客様は神様です!!」なんてトンデモナイ言葉が全国的に行き交い、完全に定着して憚らないこの国において企業乃至小売店のほうで「もったいないから…」とは言えないのは当たり前の話であって、「エコ」なんていう聞こえの良い言葉を持ってきて消費者を釣っているのは言わば企業の論理であり、致し方ない面もあると思う。彼らはつねにフロンティアを求めているし、それに呼応していくのもまた消費者のつとめであるといえばそうなんだけど、その前にともにより良い社会を構築していこうという態度がまったく無いのは消費者の怠慢だと思う。「より良い社会をめざして…」などとうそぶくとき、「自分さえ良ければ良い、とまでは行かないけどー、まあ自分が得をすることは前提条件かな」という打算がミエミエでそこのあたりが愚私が消費者を豚。と侮る由縁、というか憎悪の源泉になっている。「エコ」なんていう言葉に軽々しく同調したはいいが、だったら自分の身の回りの細かいことからはじめたら?隗よりはじめたら?自分では気のひとつも使わずテレビの前で尻掻きながら「エコだし。エコだし」言ってるなんて、それこそ豚じゃないか。
 
とまあここまで書いてみて、自分が何を書いているのかよくわからなくなってしまったので、まとめてみると、何でもかんでも制度化するのはそれはどうかな?ということである。「もったいないから(袋)良いかな?このままで」「うん、いいよー」「あ、ちょっと入れてもらっていいかな?」「あ、良いですよこのままで」「あら、大丈夫?熱いですよ?「あ、大丈夫です。あちち…(笑)」「(笑)」というようなマンツーマンのやり取りが、もっと各所で必要になってくると思う。企業は建前ばかり強調しないで現場の動きをもっとよく見るべきだし、消費者もいつまでもぼーっとしたツラで神様ぶってんじゃねえと思う。双方がともに歩み寄ってにじり寄って、より良い社会への実現(絶対ならないんだけど)を生活レヴェルで実践し確認していく。ことが大切なのではないかな。そうでもないのかな。(後日加筆:というか、そういう「企業と消費者」「政治家と庶民」「加害者と被害者」といった、表面的な二項対立に話を落とし込むことこそ、安易にやっちゃいけないと思っていたのにやっちゃった)
村上春樹は「壁と卵」の話をしたけど、大方の世論はやっぱり安易にそっちの方向に言っちゃったし(わざわざ「例えば権力も壁のメタファだ」と言っているのにもかかわらず)。とかくこの世は生きにくいな。と日々思いつつ、酒を飲み暮らしているのである。しかしブログってのは恐ろしいもんで、ダラダラとキィを打てば何かひとつ書いた気分になれちゃう。書いて満足、投稿して即、鬱。でもま、いいか。と忘れてまた同じ愚を繰り返すという。これじゃただ辛辣なだけの酔っぱらいになってしまうじゃないか。でも仕方ない。ぼくの本質そのものが、ただ辛辣なだけの酔っぱらい。みたいなもんなのだ。という安易な自己規定も含めて。
  
 
さてダニー・ハサウェイの「Extension Of A Man」という大名盤。壮大なオーケストラにはじまり、奇跡のようなエレピがイントロを導く「Someday We'll All Be Free」はあまりにも感動的。そして「Love, Love, Love」を聴きながら走っていると、どこまでも行けそうな気がする。天まで届きそうな、美しいの一言ではとても、とても、とても、何も言い表せていないような素晴らしい歌。
  
「いつか私たちは自由になるだろう」と高らかに歌い上げるダニー・ハサウェイはご存知の通り、ビルから飛び降りて自ら命を絶った。彼の歌を聴いていると時折、濃厚な「愛(おもにJ-POPの扱う愛ではない)」の密度に胸が圧迫されるような苦しさを覚える。そう、たぶん、ぼくらは。彼も同じように、その大きな愛を目の前にして、その大きな愛に包まれてすら、どこにも行けない(行けなかった)のだ。
でもだからこそ、彼の歌は心の奥に響く。「愛」を見失ったぼくの渇いた世界に満ち、潤すのだ。ぼくらはどこにも行けやしないのだ、とぼくは思う。でも、もしかしたら、ぼくらはいつかそこに辿り着くことができるのかもしれない。という、ささやかだけれど確かな希望が、ダニー・ハサウェイという人の残した歌の中に、ささやかだけれど込められている。ぼくはそれを聴くことができて、それを聴き生きているということについて(主観的にはいくら不幸せであろうと)、本当に幸せだと思う。
 
むせび泣きながらジョギングしている暗い顔の若者がいたらそれはぼくです。この曲をNHKののど自慢で、素晴らしい歌唱とともにお茶の間に届けたいという、しょうもないし(ぼくに歌唱力が無い、おそらく英語圏での出場枠は1つ、しかも実力ありが前提。ということと、歌がマイナー・歌に伴うパフォーマンスが地味なのでNHK的に採用を渋るだろう。わら納豆のコスプレでもしていけば別だが。ドリカムのほうじゃダメなのか?という3点において)まず叶わない妄想をしながらうっとりしています。
 
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↑今年は桜をまったくと言っていいほど見に行かなかった。なぜだか、どうでもいいという気分だった。飽きてしまったのだろうか。三春の滝桜はいま一番良いときでしょうね。ちょっと過ぎちゃったかな?あと思ったのは、ぼくはヤマザクラが好きだ。何でもない山や、田畑に咲くヤマザクラを見ると、うっとりしてしまう
 

» Tags:ダニー・ハサウェイ, 辛辣だが三流,

by 雨|2009-04-18 04:04

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