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[雨は遠いそらの上] 記事数:109

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常陸国一宮へ参る

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最近はといえば余りに忙しくて布団に仰臥したまま目をかっと見開いて虚空を凝視している毎日だったのだが、ふと暦を見るともう4月であり、今年に入ってから神社に参詣していないことに気づいた。これは由々しきことである。それならば、今年からいよいよ21世紀に入ったことだし(私の尊敬する音楽家の言。世紀のはじめはディケイド遅れで来るというあの感じです)、かねてより行きたかった鹿島神宮へ。瞳をとじて、行ってきました(インデックス写真に御朱印の写真あります)。

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鹿島神宮といえばご存じ常陸国一宮であり、県内はもちろん県外からも多くの参拝客を集めています。行ったことがある方も多いと思います(ゆたりブログでも書かれていた方がいらっしゃいましたし)。また関東一円をはじめとして全国各地に鎮座まします鹿島神社の総本宮でもあります。そう、茨城に住む者として世紀のはじめにお参りするにはこれ以上ない贅沢と言えるでしょう。伊勢神宮とか言えないところが茨城のイモっぽいけど。
とはいえ延喜式神名帳において伊勢神宮のほかに「神宮」の社号を与えられていたのは鹿島神宮と香取神宮だけであるから、古来よりそれなりの権威を持っていたのである。これは蝦夷討伐の前線基地としてときのヤマト朝廷が特に重要視したとか、のちに藤原氏として朝廷内での権力を確固たるものにしていく中臣氏が氏神の宮として祀っていたとか(現に、奈良の春日大社に勧請している)、以前にご紹介した水戸飯富の大井神社でもほんの少し触れているが、肥後国からやって来たとされる多氏(=意富臣?、の建借間命(タケカシマノミコト)が初代仲国国造となる)が中臣氏の時代より前に祀っていたのが起こりだとか、とにかく大変に由緒の深い(というありきたりなまとめ方をしないと、とてもじゃないがぼくにはまとめきれない)神社なのであります。
 
御祭神は武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)。
古事記における記述では、イザナミがカグツチを産んだ際に、カグツチが火の神であったためにイザナミが火傷をし(どこをとは言いませんが)それがもとで死んでしまいます。それで旦那のイザナギは怒ってカグツチの首をはねて殺します。そのときに飛び散った血から新たに神々が生まれ、そのうちの一人が武甕槌大神だったわけです(日本書紀名。古事記では「建御雷之男神(タケミカヅチノヲノカミ」)。日本書紀においては武甕槌神は経津主神(フツヌシノカミ・香取神宮の祭神。つまり東国及び蝦夷討伐のための拠点として、利根川を挟んで鎮座するこの二つの神社は軍事・政治両面において重要視されていたことの表れであろう)とともに葦原中国(あしはらのなかつくに・つまり地上)の平定を命ぜられ降臨します。

古事記によれば、大国主命(オオクニヌシノミコト)という、お兄ちゃんたちに虐待を受けて二度も殺されちゃったりもうイジメは嫌だってんで冥界に逃げ込んじゃったりして苦労しながら国造りを達成した神様に、武っちは「俺たち(天つ神)に国を渡せや」と国譲りを迫る。大国主命はこれを承諾するのだが彼の子の一人である武御名方神(タケミナカタノカミ)がこれを良しとせず、両者力比べの末に武御名方敗れ諏訪の地に逃げた(この武御名方神を祭神としているのが、つい先日も御柱祭で話題となった諏訪大社です)。


というように、もとは海上交通や境界(東国の末端、道祖神の性格?)の象徴として土着的に鹿島の地で崇敬されていたのが、東征や中臣氏の台頭などによって武神としての性格を備えてゆく背景を、古い言い伝えから類推することが出来ます。
 
  * * * * *(御託が長い)
  
さて参拝したのが日曜日ということもあってか、かなりの人で賑わっているようです。参道でみやげもの屋さんに声をかけられながら歩いていくと、御影石の白い二之鳥居が見えてきます。
鹿島神宮は大鳥居が東を向いているという全国的にもかなり珍しい神社らしいのですが、これはおそらく南西の方角2キロほど離れて北浦の湖畔に位置する一之鳥居のことを指しているのでしょう。もうひとつ珍しいことに、拝殿が北面つまり北を向いて鎮座しているという点が挙げられます。それまで社殿は、伊勢神宮と同様20年に1度新しく建て替えられていた(式年遷宮)そうですが、江戸幕府の2代将軍秀忠が現在の社殿を造営したということで、北方の蝦夷に睨みをきかせる当社成立の歴史が反映されたであろうことは容易に想像できます。
参拝したときには大して気に留めなかったのですが、思い返してみれば境内の雰囲気が少し風変りに感じられなくもなかったこと(もちろん悪い意味ではない)、また拝殿がやけに暗かったことなどが挙げられます。
東向きに鳥居をくぐるとまず見えてくるのが朱に染まる華麗な楼門。
水戸藩初代藩主徳川頼房が奉納とのことで、日本三大楼門のうちに数えられるそうです。
楼門をくぐると右手に拝殿が見えるのですが、左手の摂社・高房社へまずお参りしてから拝殿へ。というのが古例だそうです(御祭神の建葉槌神が常陸国二宮静神社の祭神であり、静神社は水戸徳川家が篤く崇敬していたので、建前はと別に水戸藩の威厳を示すため?全然違うかもしれないが)。

←列をつくって参拝をする。皆さん、とりわけ若い人なんかも結構律儀なんですね。高房社、拝殿はともかく仮殿にもちゃんと手を合わせていた。手を合わせる…といっても寺じゃないんだから…なんて言うのは野暮ですね



 
拝殿への参拝を済ませたら左を向き(鳥居からは真っ直ぐ)、今度は奥宮へと通じる奥参道の森を歩きます。途中には武甕槌神の使いである鹿が飼われています(昔は境内に放されていたそうだが、今ではフェンス内に閉じ込められ神使の威光をその内に留めたままである)。神宮の奥には鎮守の森が広がっていて、その東端を国道51号がかすめています。

↑奥参道から振り返る。中央奥に見えるのが楼門。左奥に拝殿。

 
奥宮は初代将軍家康が本殿として奉献したのを、のちに秀忠が現在の社殿を造営する際に奥に移したもの。より深く森に囲まれ暗く静か(その意味では御岩神社の奥宮、賀毘礼神社に雰囲気が似ている。あそこまで奥まってはいないけれど)であるが質素な佇まいにかえって魅せられるものがあります。

 
奥宮を左に下ると御手洗池(みたらしいけ)。大昔はここが参道の起点で、この池で身を清めてから参拝したことから「御手洗」の名が残っているそう。今ではちょっとした休憩と遊水の場になっています。水はとても清らかで、たくさんの鯉が泳いでいます。池のほとりでは椅子を並べて地元の古老による鹿島神宮にまつわる昔話の会がひらかれていました。

奥宮の裏手に回るように右に進むと要石。この石にも伝説が残っており、地震を起こすナマズを押さえておく石で、そのためこの地には大きな地震が起きないとか、いくら掘っても掘り起こせないほど奥深くて巨大だとか、実は地下を通じて香取神宮とつながっているとか言われています。
鎮守の森には幾筋も広い道が交差しており、そこを思い思いに人々が行き来しているのがとても印象的でした。また境内にもみやげもの屋とか茶屋などが賑わっており、参拝客にしても若い親子連れやカップルなんかが結構多く(まあ正直イラッとした笑)、人が多いのにはちょっと辟易したけれどのんびり散歩なんかしたりするのにも実に良い空間だなと思います。

↑だいたい1時間もあれば境内をひと通り見て回れる。摂社、末社も数多く、それらをひとつずつ丁寧に見て歩くのも楽しい。


 
  
帰りには静神社にも参拝しまして、一日に常陸国一宮二宮を訪れるなんてこんな至福の贅沢は無いんじゃないでしょうか(三宮吉田神社にもお参りすれば完璧だったけどね)。
 
 
 
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» Tags:神社, SPANK, HAPPY, 菊地成孔,

Trackback(0) Comments(4) by 雨|2010-05-12 00:12

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